明治になって西欧の学問が取り入れられ、これを学んだ日本人の手によって、蜆塚遺跡はようやく学界に知られるようになった。明治二十二年(一八八九)七月十四日のことである。当時、東京理科大学(東京大学理学部の前身)の人類学教室にいた若林勝邦氏が、蜆塚遺跡を訪れてその時の事情を、明治二十五年(一八九二)七月の『東京人類学会雑誌』に報じたのが、蜆塚遺跡を学問的に把えた記録の最初であった。その年の九月、若林氏は再び蜆塚遺跡を踏査して、その結果を『東京人類学会雑誌』第七十八号に報告している。その中で若林氏は、貝層中に鹹水(かんすい)産の貝類が含まれている点を注意して、蜆塚遺跡の貝塚はかつて左鳴湖がまだ鹹水湖であった時代に堆積したものであろうという考えを述べている。