明治二十四年(一八九一)以降、土屋彦六氏も蜆塚遺跡を踏査していた。『東京人類学会雑誌』第八巻八十号と、同巻八十四号には、土屋氏の報文があって、その採集品中には瑪瑙製らしい勾玉と蠟石製らしい丸玉があげられているのは注目される。また人骨を発見したことも報じている。さらに明治二十八年(一八九五)には、足立文太郎氏が踏査していた。足立氏は、その時人骨を採集され、蜆塚遺跡には墓地もあることを主張して識者の注意を喚起したのである。
このように、明治時代になって蜆塚遺跡はようやく学界にその名を残すようになったのであるが、この時期の調査は、いわば踏査という程度の簡単なものであって、その報告にしても、自分の採集した品を披露して寸感を述べるというにすぎない内容であった。