そして大正九年(一九二〇)十一月十七日のことであった。当時京都大学の考古学教室に籍のあった、榊原政職氏は、上京の途中蜆塚を訪れ三・三平方メートルほどの範囲を試掘した。そして深さ八〇センチメートルあまりのところから、はからずも完全な人骨を発見したのであった。それは頭を東北に向け、右側を下にした横臥屈葬の成人女性の人骨であったが、さらに注目すべき点は、この人骨の上に、こぶし大の円礫が一三〇余個丸塚の形に置いてあったということである。榊原氏はこの事を、『人類学雑誌』第三十六巻第四・五・六・七号に報告したが、その中で榊原氏はこの特殊な埋葬例を、原始的な一種の積石塚(ケールン)であろうとされた。この発見は当時学界で大きな反響を呼んだようである。また、榊原氏はその時採集された貝類をもとにして、当時の佐鳴湖はすでに現在の佐鳴湖と大差ない淡水湖になっていたのではないかとして、若林勝邦氏の説を反駁している点も見のがせない。
清野謙次氏らの調査 三森定男氏の研究報告
榊原政職氏の発見に刺戟されて、大正十一年(一九二二)には、京都大学の清野謙次氏が浜田耕作氏らの協力を得て、榊原氏の試掘地点の隣を二日間にわたり発掘したのであった。この調査では、貝層中から完全な人骨を二体発見した。いずれも頭を東北に向けた仰臥屈葬の男性人骨であったという(清野謙次『日本原人の研究』)。この時の調査結果についてはとくに報告書としてまとめられてはいないが、人骨については平井隆氏が昭和三年(一九二八)になって『人類学雑誌』第四十三巻第五号に報告しているほか、出土品中とくに土器については、三森定男氏の研究報告がある。三森氏は当時ようやく形を成しつつあった縄文土器型式の研究成果を背景として、蜆塚遺跡出土の土器を九つの類にわけ、その中に縄文の施されていないグループが圧倒的に多いこと、貝殻の腹縁による条痕が尾張・三河地方に多い型式であることなどを指摘しいずれも縄文時代後期のものであろうと結論している。三森氏の分類法は、今日の水準からみると、訂正されるべき点が多いけれども、大勢としてこれを後期に位置づけている点は、看過できない成果であるといえよう(三森定男「遠江蜆塚貝塚出土土器に就いて」『考古学論叢』第三輯)。
こうして、大正時代になってからは、ようやく調査らしい調査が行なわれるようになって、その結果いくつかの重要な事実が明らかにされたのであった。