太平洋戦争後、神話から解放されて学問の自由が叫ばれると、考古学はそれまでの日陰の歩みから、一躍して社会の流行児になった。考古学研究熱は大いに高まり、とくに若い世代による遺跡の踏査活動は盛んに行なわれるようになった。蜆塚遺跡もこうして、相つぐ考古学徒の来訪を受けたが、その動きは、正式な文献となっては現われなかった。時たま、高校のクラブ機関誌や地方誌の中に、踏査結果の報告が散見するにすぎない状態ではあったが、『静岡県史』以後忘れられた形の蜆塚遺跡も、こうした地方研究者の間では、つねに念頭にあったのである。