さて、同時期に使われたと考えられる土器をたくさん集めて、相互に比較してみると、ある持定の地域に特徴的な土器群が摘出される。また同じ地域で時期を異にする土器群を比べても、ある時期に特有の手法が認められたりする。こうした地域の差や年代の違いを示すとみられる一群の土器を、「型式」と呼んでいる。型式にはそれが最初に注意された遺跡の名前や、代表的な遺跡名を冠して、「何々式」と名づけることにしている。このような型式を丹念に調べあげて積み重ねてゆくと、縄文土器のこまかな変化変遷の過程を正確に跡づけることができる。そしてこれを基にして縄文時代のあらゆる資料が年代的に整理され、縄文文化の発展過程も明らかにされるはずである。したがってこの場合、縄文土器は年代をしるための物差しの役目をはたすわけである。そしてこの操作を縄文土器型式の編年と呼んでいる。この操作はじつに手間のかかる地味な仕事であったが、大正年代の後半から着実に推し進められ、昭和十二年(一九三七)ごろにはほぼその大綱は完成されていたのである(山内清男「縄紋土器型式の細別と大別」『先史考古学』第一巻第三号)。
蜆塚遺跡の調査においては、まず最初年代の物差しを作る必要があった。それはこの遠江地方の研究が遅れていたために、まだ正確な物差しができていなかったからである。発掘調査の結果、この点に関しては蜆塚遺跡には僅少な資料も含めて整理すると九つの時期のあったことが明らかにされている。