蜆塚第一期のころ

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 蜆塚遺跡の営まれた自然環境を考えるうえで、以上のような海進海退の現象を無視できない。すなわち蜆塚第一期のころは、まだ人の動きが乏しかったが、当時は東海地方における海進の絶頂期であったと考えられている(浜松市教育委員会『蜆塚遺跡』総括篇)。佐鳴湖はまだ当然入江になっていたものと思われる。当時の海面は今日より三メートル程度高かったと推定されている。