【周堤】柱の外側には、おそらく雨水の滲透を防ぐための周堤がめぐっていたに違いない。袋井市大畑遺跡では、この周堤に相当するものが礫を積んで作られていた住居跡が知られている(岡本勇「静岡県小笠郡大畑遺跡」『日本考古学年報』4)。しかし蜆塚遺跡では周堤として確認されたものはなく、ただ柱穴列の外側にすぐ接して周堤の存在を示すような細い杭列の跡が認められた例が、一例あるにすぎない。したがって床面の広さつまり、住居の大きさを正確に知ることが、きわめて困難である。いま述べたような細い杭列跡がもし住居の内と外を区別する壁のようなものの跡だったと考えると、床面は柱の外へはあまりおよんでいなかったということになるだろう。この場合には住居内で床として使える範囲はほぼ柱穴列の内側に限られるわけである。いま蜆塚遺跡発見の住居跡の大きさを示すために、四隅の柱穴を基準にしてその柱間を表示してみよう。これによって長辺柱間が三~五メートル、短辺柱間が二~四メートルというのが普遍的な大きさであったことがわかる。しかし中には長辺七メートル、短辺四メートルというとくに大きい例も存することは注意しなければならない。これを面積で考えると一〇~一五平方メートルというところが普通の大きさで、中には二八平方メートルという大きなものがあるということである。なお、円形の例は面積で二八平方メートルあって、方形住居跡の最大の例に匹敵する。
第7図 蜆塚遺跡発見の住居跡群(上)と復原家屋群
(表)第4表 住居跡の大きさ