墓地の配列

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 墓地は、第一貝塚に三、第二貝塚に二四、第三貝塚に四、計三一発見されていることは先述したが、その内の第二・第三貝塚付近で発見されている墓地の配列状態をみると、あるものは住居跡の中に、あるものは住居跡にごく接近して発見されている。炉跡が墓穴のために切り取られているものもあれば、逆に人骨を砕いて柱穴の掘り込まれているもの、人骨の直上で火をたいていたものなども知られている。人の住まなくなった廃家に、死者を埋葬したという場合はありそうなことであるし、炉跡を切って墓穴が掘られている前者のような例は、これに相当していたともいえよう。しかし、後者のようにそこが墓地であったことを承知のうえで、その上に住居を営んだということは、今日の常識ではとうてい理解できないことであって、そこに原始人たちの特異な思想の一端が現われている。
 ところで、これまで述べてきたような集落の構造は、蜆塚遺跡における生活の最後の日の姿を示すものである。ここまでゆきつくまでの過程は、最初に設定した年代の物差しに基づいて跡づける必要がある。これを、第9図に示した。
 
 【初期】第一期と第二期の資料は、第二貝塚と第三貝塚から検出され、第一貝塚にも断片的に存在する。この時期の遺構はなにも発見されていないが、蜆塚遺跡での人間の活動は、まずこの時に始まった。この両期をあわせて初期の段階とする。

第9図 蜆塚遺跡の集落の構造とその変遷

 【前葉期】第三期から第五期にかけては、遺構の上ではいちじるしい変化がない。三つの貝塚はともに第三期に出発して第五期におよんでいるが、第三貝塚は第五期にすでに縮少をみせて堆積がやんでいる。住居跡でこの期間内に営まれたのは、第二貝塚と第三貝塚に知られているだけで、第三期と第四期のものがわずか発見されているに過ぎない。この三時期を前葉期の段階とする。
 
 【中葉期】第六期と第七期は遺構も貝塚も乏しい時期である。確認されているものとしては、第二貝塚で第六期の住居跡と墓地があるに過ぎない。貝塚は平面的な拡がりを示してはいるが、層は薄く土の混入の割合が大きい。第三貝塚ではすでに貝塚の形成はやんでいる。いずれにしても人の動きの乏しい感が強い時期であって、これを中葉期の段階とする。
 
 【後葉期】第八期には、住居跡が第二貝塚と第三貝塚の西縁に残され、第一貝塚には厚い純貝層が堆積している。しかし全体としての規模はまだ小さいようである。この時期は、中葉期にとだえそうになった後の再開期といってよいかも知れないし、次期への準備期ともいえよう。これを後葉期とする。
 
 【末期】第九期になると、貝塚はまったく形成されなくなった。そのかわりといっては正確でないかも知れないが、黒色有機土層に示される文化層が、遺跡の中心部一帯に堆積している。しかもこの時期の住居跡は急激に増加しており、墓地も大部分この時期のものと考えられる。また第三貝塚の溝状遺構は小規模ながら、土木工事であったともいえよう。
 住居跡は、第一貝塚南部と第二貝塚東部に集中しているが、第三貝塚の西部にも営まれている。この時期を末期とする。
 蜆塚遺跡の集落は、以上の五段階の変貌を遂げた。この五段階は、第四節で指摘しておいた変化の過程と有機的に結びつくものであって、蜆塚遺跡における原始生活が、決して一直線的な発展過程をたどったものではないことを示している。