住居跡からの推算

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 第一に、住居跡の数を基礎にしてみる。住居跡は、第三期の例が一、第四期の例が五、第五期の例が一、第六期の例がなくて第七期の例が一、第八期では六、第九期では一二例となっている。これらを重複の仕方から整理して、同時に存在し得る数を出してみると、第三期が一、第四期が四、第五期が一、第七期が一、第八期と第九期は連続していて五、という数が出る。これには未調査分を加える必要があるが、逆に一時期の存続期間を考えると、この数字からさらに減じなければならない。この数字はそのまま使えば、一戸平均五人として、蜆塚人の人口は多くて二五名ということになる。
 第二に、発掘された人骨を基礎にしてみる。発見された人骨は三〇体であるが、別に人骨の発見はなかったが埋葬施設と考えられる掘り込みが一〇か所ほど確認されている。未発見のものもあることを予想すると、総数は五〇体を下ることはあり得ないといえよう。その大部分は第九期のものと推定できるので、第九期の存続年数を仮りに一〇〇年としてみよう。縄文人は一般的にいって原始生活を送っていたわりに寿命は長いといわれているので、第7表の中から死亡率を千人につき三〇人と推定しておくと、蜆塚人の人口は一七人弱という小さい値になる。この数値は、第九期の存続年数とその期間中の死者の数、それに死亡率という三つの条件をすべて仮定的に設定して得たものであるが、この条件の中でもっとも不確実なのは、存続年数であってこれを半分の五〇年と見積れば、人口は三三人前後となるわけである。
 
(表)第7表 1948年当時の死亡率(『世界統計年鑑』1965による)
死亡率種族名地域
23.8属領を除くモーリシャスアフリカ
29.6レユニオン
42.0サントーメ=プリンシペ
21.2黒人南アフリカ
23.5グァテマラ南アメリカ
20.8アデン植民地アジア
21.5ブルネイ
30.1クック諸島オセアニア

 いずれにしても以上の人口推算は、算定の基礎においてすべて仮定であるから、その数値については大した意味はないといえよう。しかし、たとえば存続年数とその期間中の死者の数は、人口推算に関しては反対方向に影響しあう条件であるから、一般的にいって蜆塚人の人口はあまり多くはなかったらしいということは、いえそうである。
 蜆塚遺跡と同時期の集落は現市域に限ってみると、次節において述べるように三~四か所と推定される。そうしてみると当時の浜松市域の人口はせいぜい一〇〇人ていどであったということになるだろう。