これら、自分たちの領域圏内では得られないものを、直接自分の手で入手しようとすれば、どうしても他の集団の領域を通過しなければならない。それがたとえ可能であったとしても、他の集団の了解をとりながら、直線距離で二五〇キロもの道程を経て目的の硬玉を手にして帰るということは、とても想像し得ないことである。しかも、これは蜆塚遺跡に限られたことではなく、黒耀石にしても硬玉にしてもかなり広汎に分布することが知られている。したがって、当時かなり普遍的に交換という経済現象が存在したことを認めねばならない。交換はおそらく集団と集団の間で行なわれたのであろうが、その対象として身体装飾品のような直接生産手段に関係しないものが多く求められているのは、それだけ蜆塚遺跡での生活が、相対的にはかなり恵まれていたことを示しているといえよう。これも、ひとり蜆塚だけにみられる現象ではなく、中期以後の縄文文化に一般的に認められているのであって、縄文文化がかなり高度に発展した段階を示すものといえよう。