[地域圏]

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 蜆塚人は、交換という手段によって、固有の生活領域圏外と交渉をもっていたことをみたが、さらにつぎのような事実がある。
 縄文土器は当時の社会において、容器あるいは煮沸器として使われたものである。ところが、その形や文様に示された微妙な特徴の差を比較してみると、その土器が作られた年代の前後関係や地域差が分析できることについては、第二節において述べたところである。第二節ではその内の年代差を強調したのであるが、ここでは改めて地域差の問題を取り上げてみよう。縄文土器が同一地域では同じ特徴をもっているが、その地域をはずれると特徴が異なって現われるというのは、土器が作られる過程において同じものを作ろうとする意識が働いていたこと、そしてそれが他の集団に対しては異なるものを示そうとしてしたことを示すものにほかならない。そのような観点から、蜆塚出土の土器をもう一度眺めてみよう。
 
 【第二期】第一期の土器は資料が不足していて何ともいえないが、第二期の土器は、西は愛知県東部から東は関東地方南部の広い地域に分布する土器群の仲間に含まれる。しかしさらにその地域内での相違点などを検討するには資料不足である。
 
 【第三期】第三期の土器群は、第二期の土器の系統をひいてほぼ同じ地域内に成立した土器群と、共通した特徴が認められる。しかしさらに細部を検討すると、伊豆半島以東のものと若干相違するところがある。広い意味では、関東や中部山岳地帯のものと一括してみることができるが、こまかにみると、東海地方のより狭い地域内に限られるというわけである。また、第三期の土器群には、微量ではあるが、関西系の土器が伴出することは注意を要する点である。その土器が主体を占めているのは瀬戸内海沿岸の地域なのである。
 
 【第四期】第四期の土器群は、第三期の土器を直接母体として成立したものであって、分布地域もまったく一致している。そしてやはり、わずかな例であるが、瀬戸内地方から近畿地方さらに九州北半部に固有の地域圏をもつ土器が、第四期の土器群に伴出している。
 
 【第五期】第五期には、第四期の系統をひく土器に、新しい手法の土器が加わったことを述べたが、その新しい要素というのは、東海地方に固有のものであって、中部山岳地帯や関東地方にはみられないのに反し、近畿地方や紀伊半島から伊勢湾にかけての地域には、共通性のあるものが多い。第四期の系統をひく関東地方の要素の中に、こうした別の要素が大きな比重を占めてきている点を注意したい。
 
 【第六期】第六期の土器群は、第二期以来の関東的な伝統をほとんど残さないで、第五期の系統のものにすっかり脱皮している。そして東海的とはいうものの、広く近畿地方から瀬戸内海沿岸地域の土器との共通性が、指摘されるのである。
 
 【第七期】第七期になると、第二期から第四期にみられた様相とはまったく逆になって、北九州から東海地方におよぶ広い地域に成立した黒色磨研の装飾性の乏しい土器群の仲間にはいってしまう。とはいえこまかく検討すると北九州地域を中心とするものと、瀬戸内海沿岸地帯から、東海地方にかけてのものは、それぞれ相互に若干相違点があり、蜆塚のものは、いうまでもなく後者のものに一括される。こうした関西系の強い土器群の中に、わずかな例であるが磨消縄文の施された土器が伴出する。それは関東地方か、中部山岳地帯にみられる固有の土器群に共通する特徴をもっている。
 
 【第八期】第八期は、第七期の系統をひいており、分布範囲も一致しているが、東海的な要素が第七期の時よりも強調されているとみられる。やはり、関東風、中部山岳風の土器を若干伴出する。
 
 【第九期】第九期になると、また土器の特徴は大きく変貌した。中核となるべき土器群は第七期以来の伝統をひいて、広い意味では東海以西の関西的土器群に包括されるとしてもよいが、第七期の場合のような斉一性はとても認め得ない。むしろ東海地方に固有の地域的特色をもつというべきであろう。他方この時期にはいろいろな要素の土器が混然としている点も、特徴の一つとして指摘しなければならない。その第一は東北地方のいわゆる「亀ヶ岡式文化」に由来するもの、第二は中部山岳地帯(長野県から山梨県)を本拠とするもの、第三は北陸地方に中心を置くと思われるもの、第四は近畿地方特有のものである。