[蜆塚遺跡の終焉]

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 いまからおよそ四千年前に蜆塚の地に定着し始め、ほぼ一千年にわたり存続した蜆塚人の生活にも、いよいよ終わりの日が近づいた。およそ三千年前のある日、長い間住み馴れたムラをあとにして、蜆塚人たちはいずこともなく姿を消した。祖先や肉親たちの墓もそのままにして。
 彼らが蜆塚の地を捨てたのには、それ相当の深い理由があったに違いない。しかしいまとなっては、その理由を明らかにすることは非常にむずかしい。佐鳴湖が完全に淡水化してしまったとしても、そこで獲得されていた食糧資源が突然皆無になったとは考えられない。そのころが海退期であったとはいえ、外海がはるかかなたへ退いてしまったということはあり得ない。三方原台地の原始林に棲む鳥獣が姿を消し、毎年とれていた木の実が急に激少したことも考え難い。人口が増加して、それを支える食糧源が相対的に減少したことは想像されるが、そういう傾向はなにも蜆塚に限られた現象ではなかったはずである。彼らが、この土地を捨てたのには、もっと根本的な変化が生活の中に起こったからに違いない。それを暗示するような事実がないわけではない。
 その第一は、蜆塚では貝塚の形成が第九期になるとまったくとだえてしまったことである。蜆塚での生産活動としては、第九期はもっとも高揚した時期であったと考えられるのに、貝類の捕食はしていないのである。第二は、石器の中に縄文文化の所産としては考えられないような形態のものが存することである。第15図に図示したごとく、長辺に刃をつけた石器で、次章で述べる弥生時代の穂摘み用具によく似た機能をもっている。例数はきわめて少ないが注目すべき石器である。第三は、蜆塚遺跡第九期以後の遺跡として考えられる引佐郡細江町岡ノ平遺跡(第13図の③)は都田川流域に面する低い舌状丘陵の先端にあり、水田面に接している点から、そこでの生産活動が従来の狩・漁撈・採集の形態とは別のものになっていることを暗示している。つまり、狩と採集に基礎を置く生活としては、蜆塚第九期が最後ではなかったかということである。
 こうした点から、蜆塚第九期(晩期初頭)のころには、縄文文化には本来認められなかった食物生産体制が、そろそろ準備されつつあったらしいといえるのである。このような傾向は、実はそのころの西日本の縄文文化の中に少なからず認められている現象であったのである。

第15図 蜆塚遺跡出土の縄文文化らしからぬ石器(浜松市立郷土博物館蔵)