[西日本の晩期縄文文化]

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 縄文時代の後期中ごろから、西日本一帯の土器は無文化の傾向をたどり、後期末ごろから黒色磨研の土器が作られるようになった。そして晩期に入ると、石器の中に打製石包丁(穂摘み具)を思わせるような薄手の打石器が現われたり、遺跡の立地が沖積地に進出するという例が多くなったりするといわれている(潮見浩「中、四国の縄文文化をめぐる二、三の問題」『日本考古学の諸問題』)。九州では布目痕のある土器や三足器に似た形態の土器などが知られ、縄文文化らしからぬ要素が一層濃厚に認められるようである(鎌木義昌編『日本の考古学』Ⅱー縄文文化ー)。こうした傾向は、晩期後半になると、一般化されてきて西日本の縄文時代社会は、食物生産体制に入ったと考える意見が多くなっている。しかしこの場合、生産されたものがはたして稲であったかどうかは明らかでない。
 蜆塚遺跡において認められたような事実が、この西日本一帯に認められた動きに照応したものと解釈できるならば、蜆塚のムラがあえて捨て去られた最大の理由は、農耕に適した土地を求める移住であったといえるのである。それは日本歴史における最初の一大変革期へ向かって、大きく前進したことを物語るものである。