弥生町の式

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 明治十七年(一八八四)東京都文京区本郷の弥生町にあった貝塚から、頸のかけた一個の壺が発見された。この土器はモース教授の発掘した大森貝塚の土器などとは趣を異にしていた。大森貝塚出土の土器に類したものは大森風あるいは大森式と呼ばれていたが、この新たに発見された土器に似たものもその後東京近辺でだんだん注意されるようになり、一部の人たちの間で弥生町の式とか弥生式という風に呼び慣らされるようになった。その後、明治三、四十年ごろには馬来形式と呼ばれたり中間土器と論ぜられたりして、いままで縄文土器とか貝塚土器と呼ばれたものとは異なり、別の民族や系統あるいは別の時代の所産として説明しようとする研究が発表された。しかし、明治期においては、弥生式土器の名称はなお一般化していなかった。それは当時、弥生式土器が石器時代に属し、弥生町の式とか弥生式という呼称は大森式とか陸平式と同じような意味に使われていたからであった。