やがて弥生式土器が、ひろく西日本各地にも存在することが知られるようになってくると、弥生式土器を使用したのは、縄文時代のあと来往した固有日本人であろうと考える説(鳥居竜蔵氏)や、弥生式土器の使われたのは、石器時代から金属器時代へ移る中間時代に相当するという説(中山平次郎氏)が現われるようになった。それは大正年代になってからのことで、このころから弥生式土器の研究が、個別的だった金属器の研究(銅鐸・銅剣・銅鉾)と結びついて、縄文時代とは異なる別の新しい時代・文化の存在を確立することになった。こうして弥生時代という時代区分が成立したのである。
昭和にはいってからは、森本六爾氏の主宰する東京考古学会を中心として、弥生式土器の研究、青銅器の研究、原始農業の研究などが、総合的に推進されるようになった。中でも遺跡の立地、農具としての石器のあり方、貯蔵施設としての竪穴群の存在などから、弥生時代の文化は水稲農耕の文化であることを論証した点は、とくに重要な業績といわねばならない。このように、弥生町の貝塚で掘り出された一個の壺に端を発した学者の関心は、ついに日本の農耕社会の解明という大問題へと進展したのである。