縄文文化から弥生文化への転換期は、北九州から東するにしたがい少しずつ傾斜していると考える人が多い。それは北九州地方が弥生文化の発祥地とされ、これが東へ東へと波及してきたと想定されているからであろう。しかしたとえ弥生文化の発祥地が北九州地方であったとしても、その東方への波及過程は決して直線的な傾斜によって示されるものではなく、伊勢湾あたりを境として大きな段階をおいていることが知られている。このことをやや詳しく述べると、伊勢湾沿岸以西の西日本地域における弥生文化への転換は、九州・中国・四国・畿内・伊勢湾沿岸それぞれの地方の間で、ほとんど時間差を示すことなく一斉に行なわれたらしい。北九州と伊勢湾沿岸との間でやっと土器一型式の差があるかなしかという程度とみられる(外山和夫「西日本における縄文文化終末の時期」『物質文化』第9号)。ところが伊勢湾以東の地域に、弥生文化が波及したのは、さらに土器の型式で二ないし三型式の変化を経た後のことであったが、いったんその波及が始まるや、いっきょに関東の北部地域まで滲透したようである。
第16図 井場遺跡出土の炭水米と籾痕ある土器底部破片(浜松市立郷土博物館蔵)