民族変遷の有無

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 このような弥生文化への転換の仕方に関して、三つの解釈がされている。①縄文文化から弥生文化への転換にさいして、大陸から新しい民族が大勢渡来し、弥生文化を成立させたが彼らはしだいに東方へ勢力を拡張して、縄文文化人を同化あるいは駆逐していったとする解釈がある。この解釈では、弥生文化は西から東へ徐々に波及し、伊勢湾付近で一時停滞したのは、それ以東の地域が縄文文化人の本拠であるため、その抵抗が大きかったとするわけである。②弥生文化の成立については、新しい進んだ技術をもった渡来民族が関与したことを認めようとする点では①の解釈に近いが、その新渡民族は畿内地方まで拡がって弥生文化を形成した後、後続して渡来する部隊がなかったために、時代を重ねるとともに在来の縄文文化人の形質の中に拡散吸収されてしまったというものである。この場合、伊勢湾以東の弥生文化の成立についてはどのように考えるのか明示されていない。③弥生文化への転換期において、大陸方面から新技術をもった人間が渡来し、彼らのもたらした技術や知識が弥生文化の成立に大きく関与したことは認めるが、そのころの西日本各地にはすでになんらかの形で農耕が一般化していたと考えられることから、新しい水田農耕の技術とそれに関連したすべての文化的要素は容易に受容できる状態にあったとし、縄文文化人の側の主体性を大きく認めようとする解釈である。この解釈では伊勢湾以東の地域への弥生文化の波及ということも、たんに水稲生育の自然条件だけでかたづけないで、農耕を受容し得る社会的条件の成熟という面を強調するのである。
 個々の器物の伝播現象は別としても、文化が伝播するという場合には、それを受け容れる側の主体的条件が、伝播現象を大いに規定するものであるという立場から、歴史の流れは発展的に理解すべきであろう。したがってここでは当然③の解釈にたって以下の記述を進めようと思う。