条痕文土器群 水神平式土器

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 この地域の縄文土器には、晩期の後半からとくに条痕という一種の施文法が顕著となり、最終末期には条痕文一色になってほとんど装飾を持たないものになってしまう(第18図1・4)。そうした条痕手法のいちじるしい土器群を、「条痕文土器群」と呼んでいるが、その中でもっとも代表的なものを水神平式土器という。水神平式土器を出す遺跡は、平地に接する低い丘陵の先端に立地し、いかにも水田耕作に適した場所を選んでいるかに思われる例が多い。しかし同時にかなり深い山間部にも分布していて、とても水田経営など想像もできないような立地をしている遺跡もある。石器をみると、石斧類や石鏃などがあって形態的にも縄文文化のものに類似しており、本質的な相違はないように思われる。しかしまた縄文文化には本来的でないと思われる石器もわずかながら存在している点は注目されるし、貝塚を形成する遺跡はほとんどない。そしてなによりも注目される点は、水神平式土器には普遍的に少量の前期弥生式土器(遠賀川式土器)が、伴出することである。伊勢湾沿岸では逆に前期弥生文化の遺跡で、水神平式土器が若干混用されている例が知られている。したがって、水神平式土器を使用した人たちの間では、水稲耕作の存在は知られていたことであろうし、実際に米を口にした人もおったことであろう。土器の形も弥生式土器の影響を強く受けている面が認められる。それゆえ水神平式土器は弥生式土器の変種であると考える意見もあるが、きわめて変質しているとはいえ、ひとまず縄文式として扱っておく方が、この地域の縄文文化から弥生文化への転換過程を記述するには便なように思われる。

第17図 浜松付近の水神平式土器出土遺跡と弥生時代中期遺跡