【海退期】東海地方では蜆塚の全時期を通じて海退期にあったことについては、すでに述べた。そして縄文時代晩期から弥生時代の前期のころにかけては、海がもっとも退いた時期にあたり現在よりも約三メートル海面が低下していたようである。こういう時期には低湿地は形成しにくいわけである。したがって前期弥生文化がこの付近に波及しつつあった時期には、まだ水田耕作に適した低湿地が形成されにくい状態だったということになる。
【海進期】やがてまた海進期に入るにしたがい、河川流域には水田に適した湿地帯が、しだいに形成されるようになり、三方原台地の南側には砂堤列ができて、その砂堤列の間はしだいに湿地化してきた。その時期は、中期の弥生文化が波及してきたころに相当していたと推測される。とはいえ、天竜川の平野部は依然として、天竜川の氾濫が繰り返されるたびに、砂礫が放出され湿地帯の恒常的な形成は、大いにさまたげられていたとみられる。これに対して都田川流域では砂礫の放出が少なくて、流域には良好な低湿地ができやすい状態であったと考えられる。
三方原台地南側の砂堤列間においても同様湿地の形成が順調に進行していたと思われる。中期の弥生文化はまずそうした地点を選んで定着し始めたようである。