その二は、弁天島遺跡であって、いわゆる裏弁天と呼ばれる一帯の東端にある。この遺跡は干潮時にようやく水面上に顔を出すという一種の湖底遺跡であって、昭和三十七年(一九六二)ごろから天野正治氏によって、土器類の収集が始められた。天野氏の採集品中には、中期から後期にいたる弥生式土器と、土師器・須恵器・土錘・木製品などがあって長期にわたる集落跡であったことが推定されるのである。その中で中期弥生式土器のおもなものの拓影を第18図10~17に示した。ここでもやはり櫛描文が盛行している。型式的には白石山遺跡とほぼ同一とみてよいが、同図の9・10・13・17などは愛知県の瓜郷式土器とまったく等しい。したがって、この遺跡は中期中葉ごろから出発していたと推定し得るのである。
第18図 浜松付近出土の水神平式土器および前・中期弥生式土器
1~3 引佐郡三ヶ日町殿畑遺跡出土(三ヶ日高校蔵)
4 磐田郡水窪町向市場遺跡出土(浜松市立郷土博物館蔵)
5・6 浜名郡舞阪町白石山遺跡出土(榎本迪夫氏蔵)
7・8 〃 新居町一里田遺跡出土(新居町教育委員会蔵)
9~17 〃 舞阪町弁天島遺跡出土(天野正治氏蔵)
18~22 浜北市於呂・芝本I遺跡出土(太田裕治氏蔵)