さらに視野を少し拡げてみると、中期の遺跡は第17図のように点々としてではあるが、主要な沖積地にはほぼ普遍的に出現していることを知るのである。中期前半の遺跡は引佐郡細江町岡ノ平遺跡(第17図B)と浜名郡湖西町伊賀谷遺跡(同図11)の二か所で、出土土器は縄文文化終末期に発達した条痕文土器の伝統を強くひいている。中期中葉の遺跡としては前述した弁天島遺跡(同図D)をあげることができるが、浜北市於呂の芝本第Ⅰ遺跡(同図A)も、この時期である(第18図18~22)。中期後半にはやや遺跡が増加し、引佐郡下では前述した岡ノ平遺跡(第17図5)、浜名郡下では舞阪町白石山遺跡と弁天島遺跡、新居町一里田遺跡(同図E)がある。出土土器は、中期中葉以後櫛描文が盛行しはじめ、とくに中期後半から後期前半にかけてもっとも発達している。その中には畿内地方の櫛描文につながる要素があるとともに、愛知県下を中核とした東海地方的な櫛描文も含まれている。なお、土器一片だけの出土が知られているにすぎないという不明確な遺跡として、中期前半の土器を出した引佐郡細江町茂塚遺跡(第21図24)と、中期後半の土器を出した浜名郡湖西町横枕遺跡(第17図10)がある。
ところで、以上のような中期の遺跡は、まだ調査がゆきとどいていないので、遺跡の内容は明らかではないが、土器片の散布範囲でみる限りその規模は大きくはないらしい。それは西日本一帯における弥生文化の発展過程にてらしてみた時、そこではすでに布石の段階を脱して、各地で独自な発展の段階にはいっていたころにあたるわけで、この地方ではそのころになってようやく本格的な水田経営が開始されたのであるから、どうしても一歩遅れをとらざるを得なかったということなのであろう。それにしても、前項で述べたように、浜松周辺ではこの時期にちょうど低湿地が形成されつつあったから、それと歩をあわせて、中期文化はいよいよ定着をみせたと解せられる。またこの時期が一五五ページで述べたような小さな海進期にあたるということも注意する必要がある。つまりそのために中期の遺跡の多くがなお発見されないまま地中に埋没している可能性があるということである。