伊場遺跡については、以下、国学院大学伊場遺跡調査隊編の学術調査報告書『伊場遺跡』にもとづいて記述を進める。伊場遺跡は、太平洋戦争末期に受けた艦砲射撃が、発見の直接の原因になった。その艦砲射撃によってあけられたいくつかの炸裂孔の周囲に、土器破片が散乱するのを、中学生が見つけて、当時浜松市立西部中学校に教鞭をとっていた高柳智氏のもとにとどけてきたのが、遺跡発見となったのである。その土器が弥生式土器であることを認めて、高柳氏はその出身であった国学院大学の考古学資料室へ報告した。昭和二十四年(一九四九)のことである。
【試掘】高柳氏は、伊場遺跡の内容を明らかにするための手はじめとして、昭和二十四年四月十六日・十七日の二日にわたり、中学生が土器を採集した地点について、試掘調査を行なった。試掘の結果はかなり良好で、本格的な調査の必要性が市内の有力者に呼びかけられ、その努力がみのって第一期調査が実施される段取りができたのである。