調査の行なわれた範囲が、約二三〇平方メートルで、その中に狭義の伊場遺跡が大体収まっていたらしい。したがって遺跡の規模としてはきわめて小さいものであったことが知られる。ところが、その発掘地点の他になお弥生式土器の密集して発見された地点が、この近くに存在する。すぐ北隣りの浜松工場の内部がその一つで、昭和三十六年(一九六一)ごろ工場内で溝が掘られたとき、狭い範囲から多量の土器の発見があった。伊場遺跡の調査報告書の中にも、発掘地点以外にも弥生式土器の発見される地点があり、遺跡の大きさは東西一キロメートル、南北〇・五キロメートルと推定されると記されている。この推定はやや過大気味であるが、このように広く解釈することはできるわけで、これを広義の伊場遺跡と呼んでもよいだろう。狭義の伊場遺跡はおそらく一戸ないし二戸の住居跡とそれに関連した遺構であったと考えられるが、このような遺跡が、浜松工場からその南側一帯にかけて散在し、広義の伊場遺跡を構成していたといえるのではなかろうか。