このような伊場式土器の特徴は、そのまま年代を示す特徴でもあって、東海地方の後期前半の時期を代表するものである。それはちょうど静岡平野に登呂遺跡が営まれていた時期であって、実年代では西暦二世紀の後半ごろ、いまからおよそ千七、八百年前と推定される。
伊場式土器の分布は、いまのところあまり多くは知られていない。浜松市内では、神ケ谷町東平遺跡(第21図18)があるだけである。周辺に目を向けると、浜名郡舞阪町弁天島遺跡(同図34)、雄踏町宇布見の鹿小路遺跡(同図19)、引佐郡細江町岡ノ平遺跡第Ⅲ地点(同図23)などが知られている。弥生時代中期になって、この地方に定着した農耕文化が、後期の前半ではまだ十分発達し得ない状態であったのか、あるいは同時期の遺跡が未発見なのか、何とも断じかねるのであるが、つぎの後期後半になると、弥生文化は明らかに大きな発展段階を迎えるのであるから、伊場遺跡の時期は、そうした次期への飛躍的発展を準備する時期であったとも解し得るのである。