天竜川流域の弥生文化

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 この関係を天竜川流域と浜松市周辺地域においてみるために、まず遺跡の分布図(第21図)を示しておこう。まず浜名湖沿岸では、主要な谷水田地帯にそれぞれ少なくとも一か所の弥生時代遺跡が見つかっている。とくに中期の遺跡のあった谷口はいちじるしい。しかしさらに注目されるのは、天竜川平野部への遺跡の進出という現象である。天竜川がこの時期に比較的安定化したとか、農耕の営まれ得るような湿地帯がこの時期ごろから形成され始めたとかというような、自然的条件もあったことであろう。しかし同時に天竜川の水を制御し得るような灌漑技術が発達していたことを想定しておかねばならない。洪水の危険をあえて犯してまでも、平野部を開発しようという社会的要求が生じてきた時代でもあったのだろう。灌漑技術と同時に農耕具の発達という条件も考えなくてはならない。前段で述べたように、後期に入ると鉄器が普及し木製農具にかわり、刃先に鉄を使ったものが一般化した。後期になってからの生産力の急激な上昇は、以上の二点に限定されるわけではないが、農耕社会のもっとも基本的な条件といってよいだろう。他方、河川流域がひとつの大きな共同体あるいはいくつかの共同体の集合体として統一される、ということも社会発展のひとつの段階であるが、それは河川流域の灌漑体系もひとつにまとめられるということである。天竜川平野部の開発はこうした社会的条件を基礎として実現したものに違いない。こうして不毛に等しかった天竜川の河原に、農業にいそしむ人々の動きがみられるようになったのである。

第21図 浜松付近の弥生時代後期遺跡と銅鐸出土地