[銅鐸について]

176 ~ 178 / 706ページ
 銅鐸はわが国弥生時代文化に特有の遺品であって、その原型は朝鮮の小銅鐸にあるといわれている。また朝鮮の小銅鐸にしても中国の扁鐘にしても、一種の打楽器であるが、わが国の銅鐸にも楽器(鐘)として使われた形跡がある。しかし大小各種の形と特殊な図文図形の多様性は、前二者にはみられない特色であって、銅鐸がわが国において特殊な発達と変遷をとげたことを雄弁に物語っている。
 
 【分類】銅鐸はその大きさ・銅質・図形・図文などから類とか種にわけられたり、横帯文式・定型式・凸線帯式というように分類されていたが、戦後それまでの分類研究の成果を集大成して、一式=横帯特殊文・二式=横帯流水文・三式=突線縦横区画内流水文・四式=斜格子平帯縦横帯四区画文の一・五式=斜格子平帯縦横帯六区画文・六式=斜格子平帯縦横帯四区画文の二・七式=突線縦横帯六区画文の一・八式=突線縦横帯六区画文の二という八つの型式に整理された(三木文雄「銅鐸」『日本考古学講座』4)。さらに最近では紐の形態変化に注目して、菱環紐式→外縁付紐式→扁平紐式→突線銃式という年代差を示す分類を縦軸に、「渦森型」・「亀山型」・「三遠式」・「近畿式」などという地方差や手法差を横軸として、詳細な型式分類の体系が示されるようになった(佐原真「銅鐸」『日本原始美術』青銅器編)。
 
 【年代】銅鐸の年代については、これを弥生時代後期に限定する意見や弥生時代以降古墳時代にかけて使われたとする考説もあるが、弥生時代前期の終わりごろから古墳時代の直前まで作られていたとする考えが有力である。
 
 【用途】銅鐸の用途については、祭器の一種であろうという点で大方の意見は一致しているようであるが、具体的な点ではいろいろと食い違いがみられる。銅鐸の年代変化から考えられることは、古いものほど楽器としての実用性にふさわしく、紐で吊して舌で発音させる仕組みであったが、しだいに大形化して実用性から離れ、据えて眺めるにふさわしいような銅鐸に転化していったようである。また、銅鐸は今日何の標式もみられない場所から偶然発見される。そこは平地のこともあるが、多くは丘陵の中腹や山あいの傾斜面といったところである。発見状態の知られているものでは、鰭を上下になるように横に立てている場合が多いようである。一か所の発見数は、特殊な場合を除き多く一口か、二口一組となっていることも注意すべき点である。こうした点から、銅鐸は個人の私有物ではなく、共同体の共有財産ではなかったかと考えられる。そして共有物としての銅鐸が使われるのは、農耕に関連した祭祀の場であったと推定されている。