[古代総説]

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 縄文式・弥生式文化の時代を経過した日本には、しだいに国家的なまとまりを作る傾向があらわれた。三世紀には邪馬台(やまたい)国のような小国家の連合体が成立したことは、中国の史書である『魏志』のいわゆる倭人伝の記事によって知られるが、このような気運に乗じて国家統一を完成したのが、近畿地方の大和朝廷である。
 大和朝廷は皇室を中心とし、これまでの小国家の首長であった国内諸豪族を統合して、海外にも進出し南朝鮮に植民地の任那を置いて、五世紀にはその最盛期を迎えた。考古学的には古墳がさかんに築造されたいわゆる古墳時代にあたり、その政治社会組織は氏姓制度と呼ばれる諸豪族の連合体であって、遠江でも古墳群・古墳支群の存する各地域には、国造などの豪族があって、大和朝廷に服属していたのである。
 六世紀後半には、大和朝廷の勢力は内外ともに衰えて、豪族間の対立は激化した。そして、聖徳太子の新政や、六四五年に始まった大化改新の事業によって、日本は律令体制に移行した。
 律令体制は、天皇を頂点とする強力な中央集権的官僚国家の体制で、従来の諸豪族はおおむね新体制の官僚として再生した。地方は国郡里に編成され、国司が中央から交替赴任し、在地の郡司以下を指揮して行政を行なう。戸籍や班田収授の制が実施されて、人民は口分田(くぶんでん)を支給され、租庸調や兵役・労役などの負担を負う。全国に駅路が作られて中央と地方の連絡が保たれる。このような整然とした組織を通じて、国力は有効に統一発揮され、奈良時代の繁栄を生んだ。地方でも国府や国分寺を中心として、開発や文化の普及が進んだと思われる。
 しかし、この律令体制も、負担の過重による公民の動揺や、貴族間の対立抗争、有力者の私利追求などのためにしだいに崩れた。延暦十三年(七九四)、桓武天皇の平安京遷都によって平安時代が始まり、その初期には律令政治の振興がはかられたが効果はなく、十世紀以降は、摂関政治・院政などの変則的な政治が行なわれた。
 このころには律令体制はほとんど形ばかりのものとなり、諸制度は大半崩れ去った。国司も多くは赴任せず、地方行政の実務は在庁官人と称する在地の有力者がこれにあたった。社寺や貴族を領主とする荘園が全国的に増加し、売官が盛んで、国家財政もこれらの私的なルートでまかなわれたのである。
 当然、地方政治は乱れ、治安も悪化した。しかし、この間にも有力者の手によって開発は進み、文化の普及もその度を加えた。そして武装した有力農民から武士が生まれ、やがて武士団を形成し、平治の乱(一一五九)を経て、平氏政権が成立するのである。