弥生時代後期の実年代は、二世紀後半から三世紀ごろと推定されているが、ちょうどそのころ、日本には邪馬台国という、部落国家の連合体があり、卑弥呼(ひめこ)という女王がいたことが、中国の史書である『魏志』の倭人伝にみえている。その記載によれば、倭(日本)は三十国から成り、邪馬台国をその盟主とし、官職や租税の制度も多少みられ、人民に身分上の差別ができていた。そして卑弥呼が死んだ時には大きな塚を作って奴婢(ぬい)を徇葬したと記されていて、古墳時代を思わせる面もある。
この邪馬台国が北九州にあったのか、畿内にあったのかという問題は未解決であるが、西暦三世紀前半の西日本の各地に小国家的なまとまりがあり、それが更に大きくまとまっていこうとする、国家統一の気運があったことは疑いない。