弥生時代における生産力の発展が、恒常的な剰余生産物を約束したが、これを基礎として交換が、そして交易が始まり社会的分業を促した。水田経営は、河川の灌漑に大きく影響されたので、具体的には小さな共同体間の闘争という形をとったにしても、社会的にはより大きな共同体的組織が要求されたのである。他方、小さくは各世帯ごとの、大きくは各地域ごとの、さまざまな生産力の不均等は、貧富の差を生ぜしめることになったが、その結果はいよいよ富の集中化を促進し、族長の力を強めることに役立った。鉄製の武器はあくことを知らぬ征服欲に加勢した。中国の史書が伝える二世紀末から三世紀中ごろにかけての、倭国内部の戦闘は、如上の過程で成長してきた各地の族長たちが、互いに覇権を争う有様であったのであろう。この争いは、大和を中心とした畿内勢力に対して有利に展開したのである。畿内勢力の中核はいうまでもなく大和朝廷であって、ここに国家統一の事業は大和朝廷の手によって進められることになった。
大和朝廷による国家統一の時期は、正確には知られていないが、ほぼ三世紀の終わりごろと考えられる。そしてちょうどそのころ、畿内以西の地域に古墳が出現するのである。古墳発生の具体的な過程については、まだ充分な解明がされてはいないのであるが、古墳はその後大和朝廷の勢力と密接に結びついた消長の過程をたどることが知られている。このことは、古墳の発生が大和朝廷による国家統一の過程を反映していると解される。また畿内地方以東での古墳の発生とその発展過程は、たえず畿内勢力との関連性のもとに理解しなくてはならない。以上の点を念頭において浜松地方の古墳文化を展望することとする。