この発見が契機となって、浜松市教育委員会で測量を主とした学術調査を計画し、昭和四十年(一九六五)八月下旬に調査が行なわれた。この調査では造出部での鉄製武器類発見地点の再調査を行なうとともに、墳頂部や墳丘面の調査も進められた。そして墳頂部の中央にあった主体部はほとんど破壊されていたが、これに平行してその南側に別にもう一つの主体部(第二主体部)のあることがわかり、予想外の成果を得たのであった。第二主体部は現墳頂下八〇センチに底面を置く、内法で一・一メートル、長さ四・三メートルの隅丸長方形の掘り方として確認され、中からつぎのような鉄製武器武具の類が発見されたのである。まず東端に三角鉄板革綴短甲一領、その西側の南壁に沿って大小二口の剣身と鉄鏃一束(四〇本)、中央西寄の部分には長軸方向に平行して大刀身二口、一方の大刀身の北側、北壁寄りに鉄鏃二束(一方は二七本、他方は六本)という配置になっていた。