この千人塚古墳の年代は、いろいろな角度から検討してみると、中期の前半、実年代で五世紀の中葉と推定される。そして上述のような出土品の内容をみると、破壊された中央の主体部(第一主体部)が不明ながら、鉄製の武器武具がその主体を占めていることが注意されるだろう。そこにはいかめしい武人の姿がうかがわれないだろうか。またその墳丘はおそらくすべて盛土で築かれていると考えられるが、その土量五〇〇〇立方メートルを動かす労働力は、いかにして動員されたのであろうか。それは、発掘された刀剣や鉄鏃に示されるような武力を背景とした権力によるのでなくて、一体何であろう。それにしても巨大な外観に比して、内部主体の構造の簡略さ(木棺直葬)は何を物語るのであろうか。地方豪族の経済的地盤の貧弱さを反映してでもいるのであろうか(浜松市立郷土博物館編『千人塚古墳発掘調査概報』)。