こうした中期古墳の成立過程については、二つの解釈が行なわれている。その第一は、それぞれの地区に早くから独立した勢力があったが、四世紀末ごろからの朝廷の東国への支配が強まった結果、朝廷との服属関係が生じ、新しく五世紀代になってから古墳を築造するようになったとするものである(西嶋定生編『日本国家の起源』ー現代のエスプリⅡー)。第二は、前期の段階においては浜北市内野を本拠とする首長が、天竜川流域はおろか、広く西遠地方一帯に君臨していたが、生産力の発展につれて社会的な階層分化が進み、古墳を築造し得る層が増大したことと同時に、各地に独立した勢力が分立してきたとするものである。事実はそのいずれであったか、なかなか決しがたいのであるが、普通には第二の解釈が行なわれているようである。
ところで、五世紀代に内野地区・積志地区・寺谷地区、それに都田川流域とそれぞれ古墳群の核になるような、小さな群が成立したことを注意しておいたが、ここはやがて後期になると、一大古墳群地帯へと発展する地域にあたるのである。後期の群集墳形成の下地はこうして中期古墳時代に準備されていたのを知ることができる。