社会の変質

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 五世紀後半を境として、古墳が大きく変質したのは、古墳が社会的産物である限り当然社会自体の変質であったに違いない。それまで庶民(その多くは農民)の生活を社会的に規制し、庶民どうしを結びつけていた社会的なきずなは、弥生時代以来の共同体的な組織であった。古墳時代の前期から中期にかけての支配者たちは、こうした共同体的な関係をそのまま残し、あるいはむしろ積極的にこれを利用して支配権を確立してきた。朝廷の支配権は、直接的には地方豪族層を把握するという形をとっており、農民層に対する直接支配は、地方豪族(国造)にゆだねられていたようである。これを国造制とも呼んでいる。しかしながら社会の発展方向は、農民層の中に貧富の差を生ぜしめ、共同体の枠からはみ出して自立しはじめる者を増加させた。彼らは家族成員の労働力のほかに、没落した農民を奴隷として従えて、その労働力をも獲得するようになって、ますますその力を伸長してきた。このような家族を、古代家父長制家族と呼んでいるが、このような有力な農民層が、しだいに社会の階層として台頭してきたのである。この傾向はやがて社会の主流を占めるようになり、六世紀の後半にはこうした古代家族が、社会の動きを規定するほどになった。こうした過程は浜松地方の歴史の流れの中にどのような形で読みとることができるのであろうか。このために、しばらく浜松市およびその周辺の古墳の姿を追求することとしよう。