[都田古墳支群]

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 都田町の須部・吉影・横尾・谷上・中津・一色などの丘陵上にも、後期の古墳が群をなしている。一色恩塚山のものは細江町の沖積地との関連性が生じてくるので、ひとまず除外しておこう。昭和三十六年(一九六一)ごろの分布調査によると、それらの数は六七基を数えたが、蜜柑園造成のため大部破壊されてしまった。これらを一括して都田古墳支群と呼ぶ。
 
 【構成】ここの場合でも、古墳は三ないし五基で一群を作ることが多く、また十数基で一群をなす例もある。こうした単位群は一五ほどあって、これが大きく都田支群を構成している。その分布状態は第31図に示したとおりである。
 
 【規模】古墳の規模は、三方原古墳支群について認められたと同様に、基底径一五メートル以下の古墳が、ほぼ九四パーセントを占めている。このうち、前方後円墳は一基で、全長二六メートル、後円部径一九メートル、高さ二・五メートル、前方部幅一一・七メートル、高さ約一メートルである。前方部は南南東に向いている。
 
(表)第12表 都田古墳支群の規模
規模
26m1
(前方後円墳)
19~250
16~182
13~158
10~1214
6.5~9.526
6m以下11
不明5
67

 【年代】都田支群中には、正式調査された古墳がない。しかし断片的な資料を綴りあわせて、大ざっぱな古墳の変遷過程を推定すると、まずもっとも古いと目されるのは、本支群の主墳で先述した中津郷ケ平第四号墳と呼ぶ唯一の前方後円墳である。この単位群中には埴輪をめぐらした古墳があって、そのうちの第六号墳では埴輪人物像・埴輪馬・古式の須恵器などが出土し(第33図)、六世紀初頭まで遡る遺物であることがわかっている。したがって郷ヶ平単位群は西暦五百年前後に出発しているといえよう。【吉影古墳】これに若干遅れて吉影古墳が作られていた。この古墳は昭和四年(一九二九)に県道工事のため消滅したが、板本栄氏の所蔵する出土品をみると、須恵器・土師器・馬具一式・金環・玉類・直刀・刀子(とうす)・鉄鏃・埴輪円筒などがある。これらはほぼ六世紀中葉の所産とみられる。これらの古墳は古い時期を示すものであって、その数は非常に少ないと思われる。他の多くの古墳は六世紀後半から七世紀前半にかけて築造されたものと推定されるのである。

第31図 都田古墳支群(右上)と敷智古墳支群の分布