[敷智古墳支群]

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 【分布】三方原台地の西部から南部にかけての丘陵地帯には、二、三基ずつの単位群が散在している。また、深萩町から呉松町へかけての根本山一帯には、昭和五年当時一五〇余基の古墳が密集していたと、『静岡県史』第一巻は述べているが、その大半は太平洋戦争後の開墾によって消滅してしまった。現在、大きすぎて削平しきれなかったり、開墾のおよばなかったりで残存しているのは、確認したものだけで二五基ある。このほか和地・堀江・伊左地・富塚・雄踏町宇布見(うぶみ)などに点在している古墳は、あわせて一六ほどである。この地域は、明治のはじめごろまで敷智(ふち)郡といわれたので、これら総数四一基の古墳を大きくまとめて、敷智古墳支群と呼ぶ。それの分布状態は第31図に示した。
 
 【構成】この支群では、分布が散慢で単独のものが目立つけれども、単位群としては、一九群くらいになるようである。【規模】これらの古墳の多くは後世変形を受けているので、正確な規模がわからない。ある程度旧状を推定しながらそれらの規模を表示してみよう。このうち不明としたのは、いずれも小規模古墳と推定されるものであるから、基底径一五メートル以下の古墳は、八五パーセント強となり、三方原・都田両古墳支群の場合とほとんど同じ構造をもっていることがわかる。

第32図 都田町恩塚山B群7号墳 石室実測図(誠心高校郷土研究クラブ実測)

(表)第13表 敷智古墳支群の規模
規模
421
271
(前方後円墳)
211
16~184
13~156
10~129
7~94
6m以下2
不明13
41