ところで、本墳は天竜川平野の中央に立地し、現天竜川はその東一キロの所を流れている。明治初年ごろの堤は、東わずか三百メートルの所にあって、たびたび決潰したという記録がある。当時の天竜川がどこを流れていたか判然とはしないけれども、たえず洪水の危険性にさらされていたわけである。この古墳から磐田原台地への最短距離は三キロで、そこには磐田市寺谷の銚子塚古墳(中期初頭の前方後円墳)が占座する。逆に三方原台地への最短距離は五キロで、ここには浜北市内野の赤門上古墳(前期の前方後円墳)がある。距離の遠近のみを根拠とするわけではないが、蛭子森古墳は、磐田原台地西縁に連なる古墳群(岩田古墳支群)の中に含めるべきだと考える(向坂鋼二・鈴木謹一『蛭子森古墳』)。