こうした関係を念頭において、浜松市史という立場で以上述べてきたところを整理してみると、第一に古墳群の構造という観点から、つぎのようなことがいえるようである。古墳時代を通じてこの地域には都田・敷智北・敷智南・三方原という四つの小さな勢力圏があった。このうち都田支群は大きく引佐古墳群として別の勢力に入っていた。敷智北と南両支群は大きく一つにまとめることのできる勢力であった。そして三方原支群は、天竜川平野部を取り囲んで成立する「遠淡海古墳群」の中に組み入れられていた。このように四つの小さな勢力は、一応別個の独立した勢力であったとみられるのであるが、これら全体を有機的に統御した勢力があったとすれば、それは天竜川平野部に成立していた遠淡海古墳群の支配者層であったか、さもなくば直接的には大和朝廷であったといわねばならない。大化前代の政治組織の中で、国造のはたした役割は重要であったと考えられているが、現在の遠江地方には記録の上では、遠淡海国造・久努国造・素賀国造の三国造の存在が推定されている。この内、浜松市史に関連してくるのは、遠淡海国造である。遠淡海国については、浜名湖周辺をこれにあてる説が多いようであって、具体的な本拠としては、前述した②の引佐古墳群の存在する地域と考えている。しかしもし古墳のあり方を重視するとすれば、より古くから、より充実した存在といえる④の遠淡海古墳群地帯をもって、遠淡海国の本拠とすべきではないかと考える。そして、もし上記三国造以外に、国造と呼ばれたものがいなかったとすれば、天竜川以西の地域はすべて遠淡海国の国造の勢力下にはいっていたとしなくてはならない。