第二にすこし観点を変えて、古墳の群集化という問題を取り上げてみよう。古墳時代後期のいちじるしい特色として、古墳規模の縮小化と数の急増化、横穴式石室の採用と馬具・金環・須恵器の副葬という現象が、全日本的に現出されたことについては、本節の最初に述べた。これは浜松市の後期古墳についてもいえることであった。まず規模の縮小化という点については、第10表と第12表と第13表を集計してみればわかることであるが、基底径一五メートル以下の古墳が、全体の八八パーセント以上を占めている(不明とあるのは基底径一五メートル以下として差しつかえない)。そしてその大部分は、六世紀後半以後になって築造されたものと推定される。それら後期古墳は、たんに規模が小さくなって数が増大したということだけにとどまらず、すでにみてきたように、一か所に密集したり、ある限られた地域に群集したりすることが、また注意すべき特色なのである。そこで後期古墳のあり方として、群集墳の成立というとらえ方が必要なのである。
本節のはじめにおいて、古墳時代の社会が後期になると変質し始め、新しく古代家父長制家族(古代家族)が、社会の有力な階層として台頭してきたことを述べたが、彼らがその奥津城として古墳を築造する階層に成長したとすれば、それはまさに群集墳の成立過程に照応することになろう。そうした情勢は、浜松市とその周辺においては、西暦六世紀後半から七世紀前半にかけての時期にあったということができるのである。