集落跡以外に特殊な遺跡として、須恵器を焼いた窯跡が発見されている。場所は、三方原古墳支群の中枢部に近い半田町西ノ谷であって、有玉古窯跡と呼ばれている。昭和三十一年(一九五六)八月から九月にかけて、久永春男・平野和男両氏を中心に、静岡大学教育学部浜松分校歴史研究部の諸君が発掘調査を実施した。調査結果は未だ公表されていないが、ほぼつぎのような成果があったといわれている(平野和男・山村宏「静岡県の古窯跡」『静岡県の古代文化』)。
①三方原台地東縁の東方に延びた丘陵の、南側斜面に築かれている。
②斜面に沿って溝を掘り、粘土で断面アーチ状のトンネルを築いている。平面形は舟形で、燃料を焚く燃焼室、土器を並べて焼く焼成室、煙突の役目を果す煙道部の三部分からなっている。窯跡の全長は八・六メートルで床は急傾斜をもっている。
③この窯では須恵器だけでなく、埴輪も焼いていたらしい。
④窯跡が使われたのは、後期前葉から中葉にかけての期間で、実年代では六世紀初頭から後半にかけての年代であった。
⑤焼いたあとの灰や、破損した須恵器、窯の壁体の一部などを、窯より下方の斜面に捨てた場所を、灰原とか、捨場と呼ぶが、その部分は未調査のまま残されている。
⑥付近には粘土層が発達し、これが不透水層となって湧水も豊富である。
この古窯跡の位置と、年代からみて、三方原古墳支群に収められている須恵器は、ここで生産されたと推定してもよいだろう。けだし浜松市内最古(遠江地方としても最古)の工業生産跡である。なお、都田町谷上の鴨ヶ谷にも古窯跡があるが、これは平安時代末か、鎌倉時代初頭のころに陶質土器を焼いた窯跡であるから、ここでは資料として取り上げない。