古墳時代後期中ごろ(六世紀後半)に成立した群集墳が、河川流域や谷あいを基盤として、古墳支群を、さらに大きく古墳群を形作っている点について、第四節に詳述した。そしてそれら支群や古墳群の成立が各地域の地方的勢力を反映していたことを推定したのである。
この時期は、歴史的には中央で蘇我氏が勢力をふるっていたころであり、やがてこの蘇我氏を打倒して、大化改新の事業が始められた。その結果、日本の政治体制は、律令による中央集権的な体制に改められ、国ー郡ー里(郷)という地方行政組織が整備されて行くのであるが、この大化改新に始まる律令体制確立の事業が、中央・地方の豪族の勢力を、天皇に直属する国家官僚に切り替えて吸収編成するという形で進められていったことは、次章に述べるごとくである。
そこで、改めて第35図を、大化改新以後の「郡」のあり方と比較対照してみると、そこには古墳支群と「郡」との対応関係が認められることに気がつくだろう。
A、湖西支群と三ケ日支群==浜名古墳群……………浜名郡 天平十二年(七四〇)初見
B、細江支群と都田支群===引佐古墳群……………引佐郡 万葉集巻十四初見
C、敷智北支群と同南支群==敷智古墳群……………敷智郡 霊亀元年(七一五)初見
D、三方原支群(長田古墳支群と仮称する) …………長田郡 和銅二年(七〇九)初見
E、内野支群と麁玉支群 ……………麁玉郡 天平勝宝七年(七五五)初見
F、二俣・合代島・岩田支群 ……………石田郡 霊亀元年(七一五)初見
こうした顕著な対応関係が認められるのは、これら古墳諸支群にまとめられる諸勢力が、大体そのままの形で朝廷の直接支配下にはいったことを示していると思われる。すでに六世紀には、日本が律令体制に移行する素地が生まれていたのである。