以上述べてきた浜松市およびその周辺の古墳は、七世紀代をもってその築造に終止符を打った。七世紀中葉の古墳もすでに数は急激に減じている。このように古墳が作られなくなったのは何故かということについては、定説というべきものがまだない。普通には、大化二年(六四六)に出された薄葬令の効果によるとされているが、この法令が出てのちまだ古墳はかなり築造されていたようであって、法令だけではこの問題は解決しない。また、仏教の伝来にはじまる新しい宗教思想が一般化したことによるともいわれている。これは火葬風習の一般化ということばでもいい表わすことができよう。仏教は六世紀の中ごろに伝来したが、火葬の風習は七世紀代でもまだ一般化していたとはいえない。畿内では、大宝三年(七〇三)の持統天皇の火葬が、大きな転機になったといわれているが、火葬が社会の広い層にゆきわたってきたのは、中世以後のことである。さらにまた、仏教思想が七世紀に入って一般民衆の間にも普及し、豪族は古墳を営む力を寺院建築の造営へとふりかえたことによって、古墳築造の意味は一層薄れてきたという考えも出されている。
いずれが直接的な契機として意味をもっていたにしても、古墳自体が歴史的な産物である限り、古墳を生み出した社会の変化によって、それは発展しそして消滅していくのが時代の趨勢であったのである。
古墳によって特色づけられた時代、古墳時代はこうして七世紀をもって幕を閉じるのである。
(表)年表4 古墳時代