大和朝廷

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 日本の国土統一は、いわゆる大和朝廷の手によって成された。大和朝廷は、近畿地方の大和方面をその本拠とし、皇室を中心としてしだいに発展した部落国家の連合体であると考えられるが、これが、中国の史書である『魏志(ぎし)』の、いわゆる倭人伝(わじんでん)の記事の中にみえている有名な邪馬台(やまたい)国と同じものなのか、あるいは別の国であるかという点は、いまなお未解決の問題である。倭人伝には、紀元三世紀ごろの日本(倭)の状況として、邪馬台国という、一大部落国家連合体が存在したことが記されているが、この邪馬台国が近畿地方の大和を指しているものならば、当時すでに大和朝廷の国家統一が非常に進んでいたことになるし、また、邪馬台国が北九州の国であったとすれば、大和朝廷の勢力は当時なお九州地方におよばず、したがって国土統一はさらに後の時代の事件であるとしなければならない。
 しかし、高句麗広開土(こうくりこうかいど)王の功業をたたえた有名な碑文には、四世紀の後半に、倭軍が朝鮮半島に進出して再三激戦を交えたことが記されている。海外に大軍を派遣して植民地を確保するというようなことは、日本の国家統一が完成していなければ絶対に不可能な大事業であるから、たとえ前記の邪馬台国が北九州の国家連合で、大和朝廷のことではなかったとしても、遅くとも四世紀前半には、大和朝廷は国土統一を完成して南部朝鮮に進出し始めていたとみることができるのである。