東国服属の時期

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 一方、五世紀末の倭王武(ぶ)(雄略天皇と考えられている)が中国の宋に送った上表文の中には、
 
 「わが祖先はみずから甲胄を着けて、東は毛人五十五国、西は衆夷六十六国を征服し、更に海を渡って海北九十五国を平定した」
 
という意味のことがみえている。これは大和朝廷が東・西、さらには半島に発展した大勢を回顧したものであるが、これらの事情を総合すると、五世紀には大和朝廷の勢力は急速に東方にもおよんだとしてよかろう。事実、現在奈良市正倉院に現存する有名な養老五年(七二一)の下総国の戸籍を検討すると、雄略天皇のすぐ前の允恭朝や、すこし後の安閑朝、すなわち五世紀の中ごろ以降には、朝廷は下総国(千葉県)をその勢力下に収めて部民を設定したことが察せられるのである。とすれば、下総国よりもはるかに大和に近い浜松市一帯の地、すなわち遠江国の服属は、それよりもずっと早い時期にあったに相違ない。