仁徳記の遠江国司

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 『日本書紀』の仁徳天皇六十二年の条には、遠江国司が、大井河に巨木が流れ着いた由を奏上したので、朝廷では使を派遣して大船を建造させ、海路、都の難波に回送させたという記事がある。年代的にはこれが遠江国の初見であるが、もとよりこの部分の『書紀』の紀年は信用できないし、また、国司というような言葉は後世からの修飾であることは明らかで、この記事がそのまま信用できるわけのものではない。けれども、上に述べたような大勢からすると、遠江国が仁徳天皇のころには、完全に中央の統制下にあって、使者が下って造船の命を伝え、その船を都に送るというようなことが起こっても、決して不自然な話ではない。このようにみてくると、遠江の地方は、四世紀末、五世紀初めには、すでに大和朝廷に服属したと考えても、大きな誤りはなかろうと思われる。
 遠江地方の大和朝廷への服属に関しては、これ以上、何の具体的な話もなく、到底明らかには知られないが、日本全般の大勢としては、元来、いたる所に部落国家的な集団があり、大和朝廷はあるいはその宗教的権威をもって、あるいはその武力を用いて、これら諸小国の君長を服属させていったと考えられる。その際にも、相互間には民族的・人種的な違和感はなかったであろうから、とくに武力闘争に終始することもなく、服属は比較的順調に行なわれたであろうと思われる。そして、服属した小国の首長は、多くは国造(くにのみやつこ)などとして、従来の支配領域の長たる地位をそのまま認められる場合が多かったようである。