ここに、国造という問題が起こって来るのであるが、この問題は、もともと史料も十分ではない上に、制度的にも変遷があると認められるのであって、これを簡単に説明することはむずかしいから、大和朝廷の国家組織がかなり整ったと思われる六世紀後半から七世紀ごろの姿を中心に、考えてみようと思う。
当時の地方の区画としては、国・県・村などがあって、それぞれ国造・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)を長としていたと考えられている。この中では村が最も小さい下部組織であろうことは当然考えられるが、国と県、あるいは国造と県主という関係については、国の下に県があったのだとする説や、初期には県が置かれたのが、後には国という区画を設けるように変わったのだという説が対立していて、いずれとも決し難い。しかし、大勢として県の例は西日本に多く、東日本にはきわめて少ないことは事実であって、遠江の地域についてみても、県主の確かな例は一つも見当たらないから、ここではもっぱら国造だけを採り上げることとする。