大和朝廷の動揺

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 五世紀から六世紀に、朝廷は諸国に直轄の土地・人民として屯倉(みやけ)や部民(べみん)を設定したが、有力な諸氏族もこれにならって、田荘(たどころ)や部曲(かきべ)を設けたようである。こうして経済的にも強固な地盤を築いた有力氏族は、政治的な権力を争って事ごとに衝突を起こした。また、国造の中にも筑紫国造磐井(いわい)のように、叛乱を企てる者もあらわれた。しかも、南朝鮮にあった日本の植民地の任那(みまな)は、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)の勢力にしだいに圧迫されていたが、国内の不統制もわざわいして、日本の諸対策は失敗を重ね、ついに五六二年、任那は新羅の軍に滅ぼされ、その後の回復運動も功を奏しなかった。
 その後も豪族間の対立は激化する一方で、中でも大臣の蘇我氏と大連の物部氏とは、皇位継承問題や仏教問題もからんで真向から衝突し、皇族をはじめ諸豪族もその渦中に入って戦闘を交えるにいたったが、その結果は蘇我氏の勝利となり、皇室の権威は薄れ、国内の統制は一向に改まらず不穏な状勢がつづいた。