しかし、六二二年、太子が薨去してからは、蘇我氏の行動はさらに過激の度を増し、これを憎む豪族も少なくなく、一方、海外では、隋を滅ぼした唐がその強大な勢力を伸ばして四方を征服し、半島でも新羅の力が増大して、日本への襲来も決してありえないことではないという状勢であった。このような内外の危機を自覚する人たちがふえてきたことは当然であるが、おりしも聖徳太子によって隋に派遣された留学生たちは、数十年の修業を終えてつぎつぎに帰朝し、有識者に大きな刺戟を与えた。彼らのもたらした学術はもとよりながら、彼らが自身体験してきた隋・唐の法令や国家体制整備の状況、そして国力の強大な模様を説く時、国政改革の気分は、大いに盛り上がったに相違ない。