こうして発遣された東国国司らは約半年後には帰京したらしく、翌大化二年(六四六)三月二日の条・同月十九日の条には、これら東方八道に派遣された諸国司の成績について、具体的な指摘がなされているのである。そして、これらの記事を分析すると、この時の東国国司というものの性質は、おおむねつぎのようなものであったと思われる。
一、ここの東国とは、いわゆる関東地方ではなく、尾張ー美濃の線より東の、東海・東山道一帯を指すらしい。
二、この国司は、後の令制の国司よりもはるかに管轄範囲が広く、国造らの上に臨時に派遣された監督官らしい。
三、したがって現地の行政事務は、従来どおり諸国造が行なっていたらしい。
四、最初にこのような国司を東国だけに派遣したのは、東国は新開地で、古くからの混雑した因縁がなく、中央勢力が強力に侵透した地域であるから、比較的単純なこの地方に新しい地方政治を試みようとしたのであろう。
大体、以上の諸点がこの時の東国国司について考えられる。この時の諸国司の長官八人は、すべて中央の名族の出であるが、このうち遠江を管したのがだれであったかは不明である。しかし、駿河を管したのが大市連であったことは知られるから、あるいは遠江も彼の管下にあったかもしれない。