大化改新の事業の中心人物は、中大兄皇子と中臣鎌足であった。皇子は孝徳・斉明天皇の皇太子として、自由な立場を利用して改革を進めたが、六六〇年七月、唐・新羅の連合軍が百済の王城を陥れるという事件が起こった。百済は比較的日本とは友好関係を保ち、任那を失ってからの日本は、もっぱらこの百済を通じて半島と接触していたのである。したがって百済の滅亡はわが国にとっては大事件で、朝廷は百済の求めに応じて大規模な百済救援軍を送ったが、六六三年の白村江(はくすきのえ)の敗戦の結果、全軍撤退のやむなきにいたり、日本は朝鮮半島から完全に切り離されてしまった。
この危機に当たって、皇子は斉明天皇崩御の後もなお皇太子のまま政務を執り、内政の整備充実に拍車をかけ、国力の充実をはかった。庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成はその目ざましい一例である。
皇子は称制(しょうせい)六年間の後、六六七年、都を近江の大津に移し、翌年、即位して天智天皇となったが、六七一年十二月、崩御すると、まもなく有名な壬申(じんしん)の乱が起こったのである。
天智天皇には弟として大海人(おおあま)皇子があって、皇太弟に立っていたが、両者共に英雄で、勢のおもむくところしだいに不和を生じ、諸豪族も両者に分かれ従う形勢となったようである。そして両派の仲介役であった功臣中臣鎌足が六六九年に世を去ると、この対立はますます烈しくなり、天皇は実子の大友皇子を太政大臣に任じ、大海人皇子が身の危険を思って皇太弟を辞して吉野に引退するや、大友皇子を代わって皇太子に立て、まもなく崩御した。