その半年後、前皇太弟大海人皇子と皇太子大友皇子(弘文天皇)の両派の対立は、ついに爆発点に達した。近江朝廷が吉野の大海人皇子を目標として、美濃・尾張の国司に天智天皇の山陵築造に名を借りて人夫を集めさせ、これに兵器を持たせたこと、近江から大和への道筋の監視を厳重にしたことを知った大海人皇子は、六七二年六月二十二日、側近の舎人(とねり)を美濃国安八磨(あはちま)郡に急派し、兵を集めて不破(ふわ)関を抑えさせ、自身も二十四日、急遽吉野を離れて東国に向かった。当然、近江朝廷側も戦闘体制に入り、ここに約一か月におよぶ壬申の内乱が始まったのである。
この乱は結局大海人皇子側の勝利に終わり、大友皇子以下の近江朝廷の首脳はあるいは自殺し、あるいは処刑され、ここに天武天皇の即位となったのであるが、戦乱の経過において、東国の果たした役割は少なくないと思われるので、その点を若干説明しよう。